高山陣屋見学

[2日目(4/29)②]


朝市で腹ごしらえした後は、国指定史跡である「高山陣屋」という建物を見学してきました。


この高山陣屋という建物は、現在は見学料を払って中を自由に見学することができますが、かつては高山城主金森氏の下屋敷の一つでした。その後、徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治をとったのだそうです。こうした役所を「高山陣屋」と呼び、おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。直轄地時代は、明治まで25代177年間続き、その間には農民との諍い(農民一揆)などもあり、建物の随所でそれらの歴史の名残を見ることができます。明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきたそうですが、郡代役所の建物が残っているのは全国でもこの高山だけということで、歴史的にも貴重な資料になっているそうです。

玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。

見学の途中で、高山陣屋を案内してくれるおじいさんが率いるグループに(こっそり)合流して、おじいさんの話を聞きながら、館内を見て歩いたのですが、おじいさんの話の中でも、大原騒動という百姓一揆の統率者だった、本郷村(現在高山市上宝町)の農民善九郎の話には胸が痛いほど感動してしまいました。

この善九郎という人は、当時まだ17歳かそこらの若者でありながら農民をまとめていたリーダーでした。しかし、こうしたリーダー格の人間は、正義のための企てであったとしてもそれを役所に知られてしまうと謀反の罪で打ち首に処されてしまいます。善九郎もまた然り。なんと、17歳の若さで政府に捕らえられ、命を絶たれてしまったのでした。当時の彼が処刑される前に牢獄から妻に送った遺言状が今も残っており、その文面を読んで聞かせてもらいましたが、17歳の青年が書いたその手紙は、正義感と妻へのひたむきな愛情に溢れており、今のチャラチャラしてる高校男子にほんの少しでいいから見習って欲しいと真面目に思ってしまいました。人生、ただ健康とか自分のことだけ考えて長生きするよりも、世のため人のために生きれたほうが良いな。でも、真似するのはとても大変なことだけど・・・。

館内にはこんな囲炉裏もありました。火はついてないっす!


拷問部屋(吟味処)。奥のかごに罪人や盗人を閉じ込めて、町を練り歩きもしたそうです。見せしめですね。他にも痛そうな拷問道具がいくつか展示されていました。

4 件のコメント:

ako さんのコメント...

笑えます。館内の案内人(おじぃさん)率いるグループにこっそり”合流だなんて、私達と同じことしてるぅ~(>_<)
しかも、そのおじぃさんが話してくださっ農民 善九郎の話を聞いて心打たれるだなんて・・・。アナタは意外と(←失礼ッ!)純粋の心の持ち主だったのねぇ。
こういう歴史的な話は私は大の苦手であまりわからないんだけど、うちの旦那さんは(私と反対で)こいう歴史的話がダイスキイなの。だから彼にmanaのこのブログの内容を読ませてあげるわッ!絶対に「あぁ~うぅ~ん、知ってる、知っているよ」って言うに違いない!(笑)※旦那さんは、今日会社の飲み会のため帰宅は遅し。

mana-surfer さんのコメント...

観光名所には必ずいる、案内人のおじいさん達。私たちはそういう人を見つけると、つい“こっそりと”グループに合流して、おじいさんの説明を聞いちゃうんだな。結構、へぇ~って話をしてくれるから楽しいよね!私もakoと同じく、歴史の話は苦手だよ~。一応、高校では日本史選択してたけど、もうすっかり忘れちゃってるし(^^;)akoの旦那さんのほうが、もっと詳しく知ってるんだろうねー。

ただ、国内観光するなら(外国でも同じだが)その土地の歴史を少しでも多く知っていた方がいろんなことに想いが広がって、より面白いはずだよね。まだまだ死ぬまで学び続けなくちゃってことだぁね!!

ako さんのコメント...

いいこと言うね、死ぬまで学び続ける・・・。ごもっとも!

そうそう、囲炉裏のmanaの光景はかなり笑えた、というより「ん!?、今年のGWって寒かったのかな」って考えたりもしたよ。
写真撮影のためのサービスだったのね(^_-)-☆

mana-surfer さんのコメント...

いやいや、本当にGWは寒かったよ。ここ高山はね。半そでセーターと薄手のカーディガンで丁度良かったくらいだもん。日本は細長い地形だから、場所によっても随分天気が変わるんだと思ったよ。